茶畑と万灯呂山

JR学研都市線は、西は京橋から神戸方面に直接通じ、東側は生駒山の北側を迂回して奈良に至るルートです。
先日、同志社前のホームで奈良行きの電車を待っていました。南北に走る線路のホームから、東正面にゆったりと静かに横たわる山並が望めます。所々、車道が折れ曲がり、途切れながら連なっています。晴天の下、惹かれるものを感じましたが、後で、その真ん中あたりに万灯呂山があるのが分かりました。
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それから数日後の朝、思い立ち万灯呂山に登ることになりました。入山時間は3時間程度ですので間に合います。

京阪の黄檗駅から隣接のJR黄檗駅に乗り換え、奈良線山城多賀駅より歩き始めました。
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小川を渡ると、舗装された道は次第に登り坂となります。
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所々、茶畑が広がっています。お茶の生育に適した環境のため、茶の生産地となって、宇治茶として全国で嗜むことが出来ます。
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また、観光農園もあり、筍掘り、いちご、ぶどう、蛍、柿、栗拾いなどが体験できます。  
40分ほど歩いて山路に入ります。階段になったり鉄製の手摺があるなど、整備された道です。山頂直下には東屋が、山頂は広場になっています。眺望は絶頂です。


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西に向かって立つと、右の北側には、愛宕山から京都市南部の市街地、左から右へゆっくり北流する木津川の向う側には、同志社と甘南備山、交野山、はるか彼方には、茨木、高槻の峰、
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左手の方へは次第に南の生駒山に続いていきます。左手の奥の方には、生駒山頂のアンテナ群も霞んて見えます。
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遮ることのなく、京都から八尾まで一望のもとに眺めることができます。
麓に一休寺のある、この甘南備山は嘗て、目印の山でもありました。平安京造営の折、条里制の南北の中心線を、京都市船岡山と甘南備山を結ぶ線に定めたそうですか、山容が特徴的で20キロ離れていても、それと特定出来たようです。
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下りはいつも早目に歩きますが、踏跡が

至る所にあるので、本道を外れないように気をつけます。崖の際を通ることもあるので、低い山でも用心が肝腎ですね。

下山後は奈良に出て、老舗の和菓子店で「御城之口餅」を買いました。

寳山寺、暗峠、慈光寺、額田

生駒駅を下車して商店街を抜けると、寳山寺参道の上りです。


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階段をゆっくりと登ると、途中、大和方面が望めます。
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燈籠の列、石畳の道を上って鳥居を抜けると惣門です。
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更に中門を潜って、本堂、拝殿です。
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この地は役行者の修行の場に始まり、江戸時代湛海律師は、葛城山の修行の後、生駒山に村人や郡山藩家老の援助によって堂宇を建立しました。さらに、近衛家煕の病気を治したことから好験は将軍の耳にも入り、天皇家、将軍家の祈祷が相次ぎ、以来多くの参拝者を集めています、と寺史は伝えています。
もと来た参道を下り、暗峠への道を進みます。
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標高300m.の等高線上の快適な漫歩は、修験道や宗教施設、瀟洒な建物が続きます。日曜日の森のレストラン「ラッキーガーデン」は賑わっています。そこの横道で大きな山羊に出会いました。 飼い犬のように紐に繋がれて、ゆったりと草を食べています。
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 やがて、広い国道308号線と出会い、暗峠への緩やかな登り道となります。それまでの平坦な道のままの調子で歩くと、少し疲れます。南側は、暗峠まで田園が続いています。
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 峠の茶屋を通り過ぎて、棚田からの道と合流するところで、国道と別れ、反対側の道を進みます。慈光寺に向けて静かで深い林の中を進んでいくと、小さな四つ角に出ます。そこが慈光寺の前です。
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同名の寺院は全国にありますが、この山号は髪切山です。1300年前、天智天皇の時代に役行者が開基しました。生駒山に前鬼後鬼が住み、人畜を殺傷して村人を苦しめていました。役行者はそれを聞き、不動明王に祈誓を修すると結願の日に、鬼は補足されました。両鬼は役行者の訓戒により前非を悔い、その誓いとして髪を切り、義覚義賢と名を付けられ、以後前鬼後鬼として役行者に仕え行動を共にしました。その場に建立した一堂が慈光寺と言われます。
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鐘楼の鐘は鎌倉時代のもので、開山堂には戦国時代の板絵千手観音像が安置され、どちらも大阪府指定の有形文化財に指定されています。春と秋の戸開式と戸閉式には、赤鬼青鬼扮装の二人を先頭に信徒たちが石段を駆け上がり開山堂の扉を開けます。千手観音が開扉され、六方に矢を放ち、無病息災を祈って護摩が焚かれます。
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 慈光寺から摂河泉展望コースの道を下山します。快適な山道はタタラ山を過ぎ、麓近くまで下ると額田山展望台です。
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少し休んで、枚岡公園から額田駅に向かいます。
 

 

 

醍醐山から石山へ

 もう一か月になります、暑さの残る醍醐山に登りました。山科でJRから地下鉄に乗り換え、醍醐駅から歩きはじめます。抜けるような青空は、秋たけなわです。

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五重の塔を垣間見ながら、

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大伽藍を遣り過ごし、女人堂から上醍醐への参道です。手水舎には、不動明王、理源大師、弥勒菩薩役行者地蔵菩薩が祀られています。
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入山料を納め、坂道を上って行きます。少し登った所は、豊臣秀吉最後の醍醐の花見の宴の跡です。
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参道は歩きやすい石段ですが、上醍醐二上山に近い高さの山ですので、1時間半かけて登りました。 
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上醍醐の五大堂の前の像は、観賢僧正、理源大師、役小角です。
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細い道を辿ると醍醐山頂です。
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下った所が横峯峠で、ここから舗装道路と合流します。かつてのゴルフ場に通じる道です。  f:id:Fis-dur:20231022225320j:image

一時間、天上の散策を続けると、視界が広がります。そして眼下は甍の波です。否、ソーラーパネルが元ゴルフ場の芝の上に広がっているのです。自然保護の観点からは、ゴルフ場が良いとは言えませんが、無機的なパネルのスロープには、少しため息が出てきます。勿論、発電という形で我々の生活を豊かにしてくれるているのですが。f:id:Fis-dur:20231022225342j:image

舗装が終わり、山道となり、西千頭岳、千頭岳を通り過ぎます。

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石山へは、東海自然歩道を下ります。古くなっていますが、歩きやすい道です。
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途中、数多くの倒木が放置されています。折角植林したであろう美林が、朽ちていくのは、如何にも勿体ないです。所有権、林道、コストなど多くの問題が関わっているのでしょうが、何とかならないかと思ってしまいます。

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林道の通じた場所なら、契約林として搬出されていきます。

山を下り街中を抜けて、京阪の始発駅へ。さらにJR石山駅で乗り換えて、大阪に戻りました。

 

静かな山旅でした。蝉の声も歩くにつれて変わっていきます。山中はあまり暑くなく、もう直ぐこおろぎが鳴くだろうと、感じたことでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

深北緑地


 

 寝屋川は小さな川のように思われるが、流域は広く、生駒山の南端より四條畷まで水源が広がっている。その中ほど、その名が中の島の萱に由来する萱島から、堤防沿いの道を下流に向かって歩き始めた。
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第二京阪道路と国道を越えて緑地に入る。広大な深北緑地は、寝屋川が氾濫した時の遊水地でもある。不時の場合を除いて、豊かな緑の公園である。
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大阪淀屋橋 芝川ビル

 日本最初のウィスキーは、スコットランドで製法を学んだ竹鶴政孝を高給で招いたサントリーが売り出しました。その後、独立した竹鶴を支援したのが芝川又四郎で、竹鶴のニッカウィスキーの最初の株主総会は、彼の芝川ビルで開かれたそうです。やがて工場は、気候が本場に近い、北海道余市に建てられました。
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