初冬の城南宮

伏見区の城南宮は、地下鉄竹田駅から西へ15分ほど、平安京造営の南北の基軸となった船岡山京田辺の甘南備山を結ぶ一直線上に位置し、鳥羽離宮鎮守府でした。
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東鳥居を通り抜け、参道を進み鳥居を潜って拝殿で参拝を済ませ授与所から春の山に入ります。


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多種の草花でも季節が外れるので花はありませんが花を引用した源氏物語の一節が花の名とともに名札に添えらています。咲き誇った草花を思い浮かべながら道を進みます。小さな流れを過ぎると平安の庭です、
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段落ちの滝から遣水は寝殿造りの池に曲水の宴が催されます。平安の衣装を纏った七人の歌人が遣水の両側の席につき、上流から酒坏が自席の前に流れてくるまでに一首詠み杯を飲み干します。この後、七首の和歌を神職が詠じて奉納されます。
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曲水の宴は東晋の蘭亭序にも表れています。王義之は蘭亭に名士達を招いて曲水の宴を開き、その時に集めた漢詩集の序文が蘭亭序であり、王義之の名筆として歴史に名を残しています。歴史の余韻に浸りながら、与謝野晶子の歌碑には季節の隔たりを感じます。

   五月雨に築土崩れて鳥羽殿の

                        いぬゐの池に沢瀉咲きぬ
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一旦平安の庭を出て参道を渡り、室町の庭に移ります。初秋の名残の紅葉を仰ぎ見て、庭園をゆったり巡ります。幾度となく歴史の舞台となった城南宮では、承久の変の間際、流鏑馬の武者揃いを行って英気を養い、また鳥羽・伏見の戦いでは主戦場となりました。

池泉回遊式の庭園には、石垣、滝が象徴的に配され、室町文化を演出しています。

続いて、桃山の庭は枯山水様式で、芝の緑の広がりは大海原、刈り込みは山並みを表しています。
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最後の離宮の庭は、枯山水が華やかな離宮時代を想わせ、玉砂利は離宮の池、緑は陸、岩組は殿舎を象徴すると言われます。
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城南宮の庭園は、昭和の小堀遠州と呼ばれた中根金作の作で、春の山、平安の庭に始まり、最後に離宮の庭を作庭しました。

 

 

 

 

 

河内の里 弘川寺 西行

 

西行の終焉の地、葛城山の麓の弘川寺に行きました。富田林からバスに乗り終点で下車です。紅葉には少し早いので、山は多彩な彩りです。
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西行に次のような歌があります。

      麓まで唐紅に見ゆるかな

             さかりしぐるる葛城の峰


西行記念館は後で拝観することにして、石段を上ると境内に出ます。中央が本堂です。
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本堂の右手の坂を登ると、西行堂があります。


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江戸時代、西行を慕って弘川寺に来た歌人浄土真宗の僧、似雲がここに開きました。似雲の歌です。
   

     須磨明石窓より見えて住む庵

                                 後につづく葛城の峰


      願わくは花の下にて春死なん

                                 その如月の望月のころ


西行は弘川寺で静養が功を奏し、京に上りそこで亡くなったとも言われます。有名なこの歌は弘川寺で詠まれなかったことになります。
また、次のような歌もあります。
   

    仏には桜の花をたてまつれ

                                   吾が後の世を人弔はば


西行墓所を見つけたのは似雲でした。


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西行墳で懇ろに弔って桜の木千本を植え、弘川寺は桜の名所にもなりました。後年、似雲が亡くなると傍らの似雲墳に葬られました。
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この広場は、嘗て善成寺の境内でした。後鳥羽上皇が病の折、弘川寺の空寂上人の加持祈祷により快癒したとして、勅願寺善世寺が建立されました。
また、西行が弘川寺に来たのも空寂の法徳を慕ってのことでした。
しかし、その養世寺も弘川寺も応仁の乱の頃、焼失してしまいます。弘川寺だけは復興しましたが、善世寺は境内だけになってしまいました。
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坂を下り返して本坊です。記念館は、見事な庭園の本坊と篠峯殿の奥にあります。
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全館の壁面の四分の一は、西行に関する書籍、資料で埋められています。
西行の和歌の正親町天皇宸翰古歌御懐紙は重要美術品であり、後鳥羽上皇勅願寺善成寺扁額、弘法大師坐像、空寂上人坐像も所蔵されています。
ゆっくりと拝観したあと、いま一度庭園を眺めます。
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樹勢が活かされているようで、海棠は樹齢350年の天然記念物です。
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弘川寺を辞去し、バスを待ちます。充実した時間です。 

     訪ね来つる宿は木の葉に埋もれて

                               烟りを立つる弘川の里

 

 

十三峠、業平道


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秋晴の生駒山、十三峠を越えました。

奈良県元山上口駅より、畑の畝に季節の花々が咲き揃う、緩やかな道を登ります。一時間近く歩くと、自動車道路の交わる峠です。


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昔からの尾根径に地蔵石仏が祀られています。 江戸時代の作ですが、数多の旅人を想い、暫し悠久の時を味わいます。


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峠から八尾市街に向かって山道を下りと、小振りの端正なお堂の横手に下り立ちます。大子堂です。その傍らには大師御休息巌があります。

もう少し下った処が、水呑地蔵院です。


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弘法大師は、喉の渇きに苦しみながら急坂を登り、十三峠を越える旅人の苦労を和らげようと、錫杖を岩に突き立て真言を唱えました。すると岩の隙間から清水が湧き出て、この水は濁りもせず涸れもしないので霊水と呼ばれました。そして
今でも、地蔵院小堂の小壺からは豊かな弘法水が溢れ続けています。


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さらに弘法大師は石地蔵を刻みました。民衆に布教されなかった奈良時代、仏教の教えを分かりやすく民衆に説いた行基は、地蔵堂を開き、平安時代になると日本全国に地蔵菩薩像が広まっていきます。


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釈迦入滅後、弥勒菩薩が成仏して如来となるまで、無仏の世の中では地蔵菩薩が多くの衆生の済度をつづけていきます。極楽に往生出来ない衆生に浄土信仰が広まっていくように、地獄など六道での救済を願って地蔵信仰も広まっていきます。この地蔵仏もその最初の頃の作のようです。その後十年余りして、大師の孫弟子壱演は石仏地蔵を堂宇に収め、その後水呑地蔵院として多くの参拝者を集めていきました。


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八尾市の神立から水呑地蔵院までの参道には、三十三箇所に地蔵石仏が安置されていますが、弘法水とともに意義のあることと思います。1200年に亘って、参拝者、旅人を力付けてきたことでしょう。

 

十三峠には、もう一つ有名な話があります。在原業平という平安時代初期の歌人は、六歌仙の一人に名を連ね、桓武天皇の(曽)孫の貴族でした。大和で幼馴染と夫婦になり仲睦まじく暮らしていましたが、名うての色男の業平は、八尾高安に愛人を作り、十三峠を越えて夜な夜な通うようになりました。ところが妻はいつも心良く見送ります。心配になった業平は、出掛けるふりをして物陰から様子を伺います。妻の殊勝な振舞いに心を動かされた業平は、それ以後、河内に通うのを止めました。


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通うのを止めた理由はもう一つあります。業平が
峠を下って愛人の家の前まで来ると、開けた窓から飯を自分で盛っている愛人が見えました。興ざめした業平は、以後、業平道の峠越えを止めました。愛人は業平が来なくなったので悲嘆し、川に身を投げました。以後、高安の家々では、東の峠側に窓を付けなくなったそうです。業平は、罪作りな男です。空海の教えを、熱心に学べば良かったですね。でもそうすると、数々の名歌は生まれなかったでしょう。

 

 

今日、来し方を振り返りました。
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初秋の観心寺

汗ばむ10月始めの観心寺にお邪魔しました。スマホを忘れたので写真はなく文字のみになりました。
檜尾山の緑に懐かれ、山門から金堂まで、
坂道の参道から見通せます。

 

山門を入った右側の堀で囲まれた後邨上(後村上)天皇旧蹟は、天皇の行宮で一年足らず政務を勤めました。方形の堀に囲まれ、豊かな緑の中の石碑です。後醍醐天皇に嗣ぐ南朝第二代後邨上天皇は、上京敵わず、河内では何度も頓宮を変え、住吉で崩御されました。陵墓は同じ観心寺境内奥の高台に在ります。

石段の上に拝殿があり、さらにその上部の鎮守堂、或は訶梨帝母天堂は、戦国時代後期に再建された重要文化財です。祀られた鬼子母神は、自分の子を守るため他のこどもを食べていましたが、釈迦に諭され、子どもの護り神となりました。 多くの参拝者を集めています。

参道の向い側が中院。楠木正成、幼名多聞丸はここに住し僧滝覚から仏典と学問を学び、兵学は大江時親のもとに8キロの道を三年通って修めました。

空海はこの地で北斗七星の勧請を行い、それらは7つの星塚となって、如意輪観音の収められた金堂を取り巻いています。開運七星巡りも行われています。密教の七星如意輪経には、如意輪観音を中心に七星を配置し、眷属の訶梨帝母天と共に災を取り除くとあります。観心寺の金堂と星塚は七星如意輪曼荼羅を立体的に表しているようです。

地理的に、観心寺は京都東寺と高野山を結ぶ線上にあり、中宿としても栄えました。また、山門の扁額に遺跡本山とあるように、真言宗総本山の金剛峯寺から3席目、神護寺と同格の寺格と言われています。

観心寺役行者が開山した雲心寺でしたが、空海が礼拝石で北斗七星勧請を行った時に観心寺と名を改めました。嵯峨天皇の勅願により堂宇を建立し、 外陣扁額は嵯峨天皇によるものです。後に楠木正成は、後醍醐天皇の勅許により外陣造営を勤め、間口を五間から七間に広げました。昭和の大修理を経た国宝の金堂は、朱丹の映える壮麗な建物です。
内陣は、秘仏如意輪観音を中心に脇侍がやはり秘
仏の不動明王愛染明王、その前面を、多聞天持国天増長天広目天の四天王が護り、中央の須弥壇の両側に金剛界曼荼羅胎蔵曼荼羅壁が立てられています。
如意輪観音は意のままに願いを叶える宝珠を有し、精神を集中し説法して衆生の苦を取り除き利益(りやく)を与えます。六本の腕のうち、第一手は頬に当て思惟し、第ニ手は宝珠を持ち、第三手は数珠を持つ、左第一手は法輪を持ち、第二手は地に触れ、第三手は蓮の蕾を持つ半跏像です。国宝ですが、他の明王、四天王も重要文化財です。
秘仏開帳が待たれますが、果たして見ることと見ないことに、どれだけ差があるのかと思うこともあります。でも、一度は目にして拝礼したいと感じます。

一仕事を終えた心持ちで金堂を後にします。隣の弁天堂は、四天王と共に国家を守護する弁財天を祀っています。さらに阿弥陀堂へと続きます。 密教では全ての存在を5つに分け、その根源が五仏の如来大日如来阿弥陀如来がそうなります。五仏は五蘊の認識作用とも考えられています。また阿弥陀如来が成仏する以前は法蔵菩薩であり、師匠は世自在王仏ですが、観世音菩薩とは同門になるそうです。


その向かいが茅葺の建掛堂です。楠木正成は三重塔建立を発願しましたが、湊川で敗死したため、造営中の一階部分だけが、茅葺きのまま残されました。そのため建掛堂と呼ばれますが、裳裾の木組は堅固で、壮麗な三重塔を想わせます。内部には大日如来が安置され、弥勒菩薩宝生如来、釈迦如来薬師如来は霊宝館に収蔵されています。

居並ぶ伽藍を見ると、先の拝殿は、金堂、訶梨帝母堂、弁天堂、阿弥陀堂、立掛堂の諸菩薩、如来の拝礼のための建物であったと思えてきます。

石段を上ると、観心寺を開いた弘法大師を祀る御影堂。隣の行者堂は雲心寺(観心寺の前身)開基の役行者が祀られています。

石段を上った所に後村上天皇檜尾陵があります。

観心寺を開いた空海の弟子である実恵は開山堂に祀られますが、本願堂とも呼ばれています。後に実恵は東寺一長者(管長)となりましたが、最期は観心寺で亡くなり、実恵は道興大師として開山堂の後で御霊を祀っています。共に観心寺創建に尽力した真紹は、実恵より潅頂を授かり東寺一長者となって、永観堂を創建しました。


楠木正成首塚は、湊川神社の戦いで敗れ、その首は京都で晒されましたが、勝者の足利尊氏はその首を観心寺に送り首塚として弔いました。正成の旗印は「非理法権天」と呼ばれています。

新待賢門院は後醍醐天皇の側室で、後村上天皇のご母堂ですが、その墓は後村上天皇陵と少し離れた所に祀られています。

霊宝館には、多くの重要文化財が収められ、圧倒されてしまいます。それらの内二体は京都国立博物館観心寺展に出品中でした。楠木正成の書状が展示されていますが、名筆で美しい書体だと思います。正成の人柄が偲ばれます。

ゆっくり、充実した拝観が叶いました。観心寺のガイドさんのお陰です。有難うございました。

 

 

 

 

 

龍渓禅師に因んで

西区九条の九島院さんにお邪魔しました。龍渓禅師開山の九島院には以下のような縁があるそうです。

来朝した隠元隆琦禅師は、徳川将軍に謁見し、宇治に萬福寺を開いて黄檗宗の開祖となりました。これらは龍渓禅師の尽力によるもので、龍渓宗潜は隠元禅師より印可を受けて、以後龍渓性潜と名のります。


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1660年、開山和尚として招かれた龍渓禅師は、ここ九島庵(院)開基法要のさなか、台風に襲われ座禅を組んだまま高波に呑まれました。境内には先代九島院和尚による漢詩が刻まれています。


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それより先、龍渓禅師は後水尾上皇に菩薩戒を授け、大宗正統禅師の師号を賜りました。

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龍渓禅師の亡くなった10年後、安治川が開削されます。河村瑞賢による防災事業でした。

この後宝永年間、官許を得て、霊亀山九島院となりました。

 

太融寺さん

4回目のコロナワクチンは、扇町プールで受けました。会場は、以前、大阪扇町プールとして数々の記録が生まれ、水泳以外のスポーツ大会も数多く開かれてきましたが、20年前の国体の時に移転し、現在、扇町プールとして運営されています。

ワクチン接種は直ぐに終わり、近くの太融寺に行きました。繁華街の中心の大通りに面して位置していますが、扇町プール始め北野一帯はかつての境内だったそうです。 

821年、弘法大師は近くの森の木から、地蔵菩薩毘沙門天を彫り、庵を結んで安置しました。この話を伝え聞いた嵯峨天皇は、自身の念持仏、千手観世音菩薩を下賜し、それが本尊となり今に伝わります。843年、嵯峨天皇の皇子、源融公は、七堂伽藍を建立し、山号を大師の霊木に因んで佳木山とし、源融公の諱をとって後に太融寺と呼ばれるようになったようです。


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境内には、淀君の墓が鴫野より移され、追悼碑には昭和の漢詩人藤見東陽の漢詩が添えてあります。

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また、芭蕉の最後の句会の句碑があります。

斯波園女の宅の句会で詠んだ、

白菊の目に立ちて見る塵もなし、

が刻まれています。その後、程なくして松尾芭蕉は亡くなります。


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本堂の東側には、九山八海の庭が広がっています。
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九山八海は、須弥山を中心に九山が聳え、八つの海がその間に広がり、さらに外側を鉄囲山が取り囲むと考えられています。

この八海の庭をじっくりと体感すると、神羅万象宇宙の広大さを彷彿とさせてくれるようです。
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八海を飛石伝いに巡ることが出来るのです。 


瀧石組です。


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亀石です。
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須弥山になるのでしょうか。太融寺の由来が刻まれています。

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神仙島と、八角堂です。


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太融寺は、第二次世界大戦で全焼し、堂宇は多くの篤志家、信者さんによって再建されました。300年遡った大阪夏の陣でも、灰燼に帰しています。多くの犠牲と、復興の粘り強さを思わずにはおれません。

さらに私たちは、悠久の宇宙に思いを寄せることさえも出来るのです。


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南大門より、本堂を望みます。