十三峠、業平道


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秋晴の生駒山、十三峠を越えました。

奈良県元山上口駅より、畑の畝に季節の花々が咲き揃う、緩やかな道を登ります。一時間近く歩くと、自動車道路の交わる峠です。


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昔からの尾根径に地蔵石仏が祀られています。 江戸時代の作ですが、数多の旅人を想い、暫し悠久の時を味わいます。


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峠から八尾市街に向かって山道を下りと、小振りの端正なお堂の横手に下り立ちます。大子堂です。その傍らには大師御休息巌があります。

もう少し下った処が、水呑地蔵院です。


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弘法大師は、喉の渇きに苦しみながら急坂を登り、十三峠を越える旅人の苦労を和らげようと、錫杖を岩に突き立て真言を唱えました。すると岩の隙間から清水が湧き出て、この水は濁りもせず涸れもしないので霊水と呼ばれました。そして
今でも、地蔵院小堂の小壺からは豊かな弘法水が溢れ続けています。


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さらに弘法大師は石地蔵を刻みました。民衆に布教されなかった奈良時代、仏教の教えを分かりやすく民衆に説いた行基は、地蔵堂を開き、平安時代になると日本全国に地蔵菩薩像が広まっていきます。


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釈迦入滅後、弥勒菩薩が成仏して如来となるまで、無仏の世の中では地蔵菩薩が多くの衆生の済度をつづけていきます。極楽に往生出来ない衆生に浄土信仰が広まっていくように、地獄など六道での救済を願って地蔵信仰も広まっていきます。この地蔵仏もその最初の頃の作のようです。その後十年余りして、大師の孫弟子壱演は石仏地蔵を堂宇に収め、その後水呑地蔵院として多くの参拝者を集めていきました。


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八尾市の神立から水呑地蔵院までの参道には、三十三箇所に地蔵石仏が安置されていますが、弘法水とともに意義のあることと思います。1200年に亘って、参拝者、旅人を力付けてきたことでしょう。

 

十三峠には、もう一つ有名な話があります。在原業平という平安時代初期の歌人は、六歌仙の一人に名を連ね、桓武天皇の(曽)孫の貴族でした。大和で幼馴染と夫婦になり仲睦まじく暮らしていましたが、名うての色男の業平は、八尾高安に愛人を作り、十三峠を越えて夜な夜な通うようになりました。ところが妻はいつも心良く見送ります。心配になった業平は、出掛けるふりをして物陰から様子を伺います。妻の殊勝な振舞いに心を動かされた業平は、それ以後、河内に通うのを止めました。


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通うのを止めた理由はもう一つあります。業平が
峠を下って愛人の家の前まで来ると、開けた窓から飯を自分で盛っている愛人が見えました。興ざめした業平は、以後、業平道の峠越えを止めました。愛人は業平が来なくなったので悲嘆し、川に身を投げました。以後、高安の家々では、東の峠側に窓を付けなくなったそうです。業平は、罪作りな男です。空海の教えを、熱心に学べば良かったですね。でもそうすると、数々の名歌は生まれなかったでしょう。

 

 

今日、来し方を振り返りました。
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